傑作選

死んでは花見が出来ないし、さよならだけが人生さ

音楽現代1995年7月号


 原田力男氏の訃報を聞いたのは去る3月25日の夜。高久暁くんからの電話でだった。
 そう言えば、原田さんと最後に話したのも、昨年春、妹がガンで死んだことを書いた私の原稿を読んでかかってきた十年ぶりの一本の電話だった。その時、彼は妹の病名を聞いて、「ボクも同じだよ」と言っていた。
 それから一年後の1995年3月22日、原田さんは亡くなった。享年56。亡くなって初めて私は彼の歳を知った。
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 原田さんと初めて会ったのは1975年10月だから、もう20年も前のことになる。私は大学を中退して無職無収入のドン底をはい回っていた22歳のころだ。
 そのころ作曲を私淑していた松村禎三氏から紹介された原田さんは、ピアノ調律師という仕事のかたわら「プライベート・コンサート」と銘打ったミニ・コンサートのプロデュースを企画していると言う不思議な人だった。
 小柄なセールスマン・タイプで甲高い声でよくしゃべるこの人は、ピアニストの高橋アキさんをソリストにして、無名の新人作曲家のピアノ曲ばかりを紹介するコンサートを企画していると説明し、しきりに私にも参加を薦めた。
 その時私は「シリウスの伴星によせる」というピアノ曲を提出したのだが、翌1976年3月に行われたそのコンサートでも、その後のコンサートでも、私のその曲は遂に演奏されることはなかった。(ちなみに、この時のコンサートで坂本龍一・藤枝守・吉川和夫・大石泰といった作曲家がデビューしている)。
 で、私は当然ながら無名な作曲家なりに気を悪くしたわけなのだが、この不思議な私立プロデューサー氏は、その後も実にこまめに電話をくれ、饒舌に話をしたがった。そのころいったい彼と何を話していたのか記憶は定かではないが、夜中にかかってきて延々何時間も話し込むことも少なくなかった。
 そして、コンサート会場で会うたびに「プライベート通信」なるガリ版刷りのB4大の私信の束をくれる異様な日々が始まった。

 その「通信」には、若い音楽家たちへの私信のような文章から、現在の活動状況コンサートの予告などがビッシリ書き込んであり、渡す相手の名前と通しナンバーが付いていた。つまり不特定の他人に無作為にバラまくビラの類などではなく、彼が目を付けた特定の個人だけに宛てた立派な私信なのである。
 数百人に宛てて無償で配ったこの「通信」の総数は十八年間で八千枚ほどになり、刷った総枚数はのべ数十万枚とか。そのほとんどが相手への直接手渡しで、数週間会わないと自宅にやってきて郵便受けにドサッと投げ込んで行くのだから、驚くべき労力、驚くべき執念である。
 やがて、原田さんが企画するプライベート・コンサートは、作曲家の鈴木博義・甲斐説宗・吉川和夫・大石泰・細川俊夫、演奏家の森田利明・佐藤紀雄・野口龍・小林健次・崎元譲・甲斐道雄・岩亀裕子・御喜美江・清水高師などをフィーチャーして続々行われるようになり、その数はその後の15年で計50回以上を数えることになる。
 そして私も、1978年11月に上井草の岩崎ちひろ美術館における第二十二回プライベート・コンサートで、ハーモニカの崎元譲氏の演奏によって「忘れっぽい天使」という作品を初演させてもらい、実質的なデビューを飾ることになった。
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 そのころの原田力男氏の「権威」というものに対する反発は、反骨精神というより感情的嫌悪に近いものがあったような気がする。
 特に東京芸術大学に対する異様なまでの反発は、この大学を中心とした楽閥に受け入れられない若い作曲家のみをバックアップしようというプライベート・コンサートの基本ポリシーになっていたようだ。
 だから、その芸大で起こったヴァイオリニスト海野義雄氏の事件への執着(彼は全裁判の全記録を通信で公開しようと裁判所の傍聴席に通い詰めた)は凄まじいものがあった。
 そして、敬愛していた作曲家が天皇から賞を受けた時に彼が見せた嫌悪感も凄かった。それはまるで、皇帝になったナポレオンに激怒して交響曲の献呈の辞を削ったベートーヴェンを思わせたほどだ。
 しかし、八十年代になって体の不調を訴えるようになった原田さんは、権威となってしまった現代音楽への失望をもらすと共にコンサートのプロデュースを減らして音楽家とのコンタクトを疎遠にし、その精神的空洞の穴埋めをするかのように、若い音楽学生や研究家との勉強会を始めるようになった。

 私が疎遠になったのもまさにそのころからだが、この「零の会」という勉強会から長木誠司・白石美雪・高久暁・片山素秀といった人材がしっかり出ているのだから、原田さんの慧眼は鈍っていない。
 しかし、月日が何かを癒したのか、あるいは逆に様々な現実的失望が積算されたからなのか、彼の音楽への執念は緩やかに拡散して行ったように(少なくとも外面的には)私には見えた。
 ただ、それが最後には病魔でまた収斂することになる。人間は所詮、死に至る病に犯された子羊に違いないのだが、彼の場合はそこに特に壮絶な悪魔的な皮肉を感じる。
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 実質的なデビューに関わってもらい、その後生涯の盟友ともなったギターの山下和仁氏と出会ったのも原田さんがきっかけだから、私は原田さんには深い恩義がある。
 しかし、十年ほど前にほとんどケンカ別れのように疎遠になった原田さんには、亡くなったからといってうわべだけの賛辞でつくろって簡単に訣別する気にはなれない。
 第一、彼が本業そっちのけの膨大な無償の行為で得ようとしたものが、彼を幸福にしたとは私にはとても思えないのだ。
 全力で水を蹴りながら、まるで吸い込まれるように孤独の淵に降りて行った彼の姿は、他者による浅薄な表面的批評をかたくなに拒絶しているように私には感じる。

 多分、いつの日か私が同じような孤独の淵に吸い込まれて行った時、その時にこそ始めて、私は彼に向かって真実共感を持った思いを語れるのだろう。
 葬儀で一緒だった音楽評論家の渡辺和彦氏が、「それにしても、独り者の死に方について考えさせられるね」とつぶやいたのが、葬儀の合間に流れた清水高師氏のヴァイオリンと共に、心の空洞の中で暗い残響として疼いている。

(1995.06.01)


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